難しい話だねと最初に言っておけば自分はどちらに加担するでもなく俯瞰で状況を見ているえらい存在ですよとアピールできるっておばあちゃんが言ってた
2021年2月14日におねロリキメセク天皇が崩御*1した事件は日本のTwitterのトレンドにも入ったことから知っている人が多いと思う。
2月13日23時ごろに福島県沖で起きた大きな地震をうけておねロリキメセク天皇という名前のアカウントが「バイデンが福島の井戸に毒を投げ込んでいるのを友達が見ました!」とツイートしたことに対しTwitterの引用リツイートでジャーナリストの津田大介氏が「悪質な差別煽動。皆さん通報しましょう。」とツイートし、結果的にアカウント削除に至らしめたという内容である。津田氏は他にもいくつかの不謹慎系のツイートに対し同様の文言でフォロワーに通報を促しており、自身の立場は明確だ。
私自身、自分のツイートには責任を持っていない(公開アカウントだったころは細心の注意を払っていたが鍵をかけてからは自分の心に正直にツイートしている)し、そもそも私は不謹慎という言葉が一番嫌いである。自分が嫌な気分になっただけのことを「不謹慎」とか「世間が許さない」とか主語を大きくしてとがめることで留飲を下げるやり方が一番嫌いなのだ。
それでも、というわけではなくむしろ、だからこそ、私は以前から自分の欲望と社会への利益を天秤にかけることの大切さを考えてきていた。そこについてはここで記すつもりはないがジェンダー論などについては平均以上に真剣に考えているつもりだ。
そういう社会的利益を考えたとき、おねロリキメセク天皇のツイートは明確によくないものである。津田氏がこのツイートに対して怒るのは絶対的に正しい。
Twitterでテキトーなことを発信している我々はただ世間様からお目こぼしを受けているだけであり、許されているわけではない。社会がその気になればすぐにつぶされてしまうようなことをしているのだから、いままでがラッキーであり社会にとがめられたときはそれを甘んじて受け入れなければならない。
ただ今回津田氏が犯した過ちは2つあると私は思う。1つ目はそもそもこの出来事の発端となった引用ツイートの「悪質な差別煽動。皆さん通報しましょう。」だ。こちらについてはもう多くの人たちが話している。「件のデマツイートは決していいものではない」という認識はしっかり持ったうえで次のTogetterを読んでおいてもらいたい。
今回私が言及したいのはもう一つの過ちだ。
アカウント一時的に消し利用規約違反でBANされることを防ぐある種のチート行為をどういう文脈(肯定的か否定的か)で紹介してるのかが問われてると思うんですよね。「賢い」という言葉は僕には肯定しているように見えました。畢竟高橋さんが言及を避けた「内容についての評価」が問われているのかと。 https://t.co/8NRFsTODQU
— 津田大介 (@tsuda) 2021年2月14日
文脈を明らかにするために一連のツイートをもう少し貼っておく。
有名ツイッタラーの「皆さん通報しましょう」への有効な対抗策が、「通報される前に自分でアカウントを消してほとぼりが冷めた頃に復活」なのか。確かにこれなら通報出来ないし、一過性の通報祭りを回避出来る。賢いなあ。
— chokudai(高橋 直大)🍆 (@chokudai) 2021年2月14日
今回それが起こった具体的な内容の是非については一切言及しないけど、この対処は、一般的な対応策として知っておいてもいいかも?
— chokudai(高橋 直大)🍆 (@chokudai) 2021年2月14日
これは実際にそうでいくらでも抜け道なんてある。「通報祭り」という手段にしたって有効性はそれほど高くなく、結局のところ米Twitter社に対して、利用規約の徹底とツイートの文脈と悪質性を判断できる日本語のわかる十分なスタッフの増強を求めていかない限りこういういたちごっこは続くでしょうね。 https://t.co/WwAU1z32kA
— 津田大介 (@tsuda) 2021年2月14日
元ツイートに対していえば、こういう行為を「賢い」と表現することには強い違和感ありますけどね……。
— 津田大介 (@tsuda) 2021年2月14日
こっちも拾ってもらえませんか><
— chokudai(高橋 直大)🍆 (@chokudai) 2021年2月14日
(内容に関しては触れたくなくて、アカウントを消す行為についてだけ言及したかったのに、この引用の影響でそのツイートだけ読んだ人がめっちゃこっちに来てます)https://t.co/IJWtoUZxsb
アカウント一時的に消し利用規約違反でBANされることを防ぐある種のチート行為をどういう文脈(肯定的か否定的か)で紹介してるのかが問われてると思うんですよね。「賢い」という言葉は僕には肯定しているように見えました。畢竟高橋さんが言及を避けた「内容についての評価」が問われているのかと。 https://t.co/8NRFsTODQU
— 津田大介 (@tsuda) 2021年2月14日
私はこういうのが嫌いだ。もう少し解説しよう。
まず高橋氏のツイートを解説する。凍結と削除の違いだ。ツイッターのアカウントはTwitter社が不適切と判断した場合凍結され、永久に使えなくなる。もちろんもう一度アカウントを作り直すことはできるが、その場合以前使っていたフォロワー関係はもう一度作り直す必要があるし、これまでしていたツイートも全てぱあになる。
一方で、アカウントは自分自身で削除することもできる。その場合誰もアクセスできなくなる。しかし誤作動により削除してしまった場合も考慮されており、削除してから30日間までならそのアカウントを復活させることもできる。この場合過去のツイートもすべて残り、フォロワー関係も無事だ。
つまり、今回のように大勢に通報されてアカウント凍結の危機に陥った場合は、先に自分で削除してしまえばこれ以上通報も来ないため凍結の心配がある程度抑えられ、炎上のほとぼりが冷めたころに復活させれば以降全く問題なくTwitter生活を送ることができる。今回のおねロリキメセク天皇氏がアカウント削除を選択したのも凍結対策であり、おそらく来月には復活しているだろうと思われる。
この手法は釣りアカウントでフォロワーを獲得した場合にも有効だ。例えば超有名漫画家を騙るアカウントを作る(例えば吾峠呼世晴先生)。そうすると「あの大先生がTwitterアカウントを!!」と拡散され一気に10万フォロワーは貰えるだろう。
しかしいずれ集英社が吾峠先生本人に確認し、違うことがわかると今度はそちらのツイートが爆速で拡散され、大衆は「なーんだあの大先生じゃないのか」とフォローを外し、10万フォロワーから一気に5000フォロワーくらいまで減ってしまうかもしれない。*2
この時に偽アカウントがアカウントを消せば、他のユーザーはこのアカウントに対する処置を何も行えない。つまりフォローを外すこともできなくなる。
このままほとぼりが冷めるのを待ち、1か月後にアカウントを復活、アカウント名などを「○○激安情報」などに変更すれば一瞬で10万フォロワーのスパム宣伝アカウントのできあがりだ。こういうスキームも存在するということは覚えておいて損はないだろう。
話を戻そう。高橋氏はこの手法に舌を巻き、「この方法は賢いなあ」とツイートしただけに過ぎない。またその続きのツイートで「今回それが起こった具体的な内容の是非については一切言及しないけど」と言っていることから高橋氏はおねロリキメセク天皇のツイートを称賛しているわけではないことは容易にわかる。
しかし津田氏は引用ツイートで「「賢い」という言葉は僕には肯定しているように見えました。」と発言している。私が今回問題にしたいのはここだ。
「ある人についての評価」と「その人がとった行動についての評価」は分けなければいけない。元服役者が路上でおばあちゃんを救った場合と普通の市民がおばあちゃんを救った場合の評価のされ方は平等でなければいけないし、その人の人格に問題があるからといってその人の過去の行動がすべて間違っているわけではない。
今回の高橋氏の発言も「彼の発言自体はさておき、こういう炎上騒ぎが起きたときに自分からアカウントを消すという戦略は頭いいなハハッ」というだけの話であり、この点において高橋氏は人物と行動との区別ができている。
一方で津田氏は「彼のこの行動を"称賛"している、つまり高橋氏は彼の発言に賛同している!!」と短絡的な判断をしており、高橋氏をも批判しているようにも思える。津田氏はツイートで「内容についての評価が問われているのかと。」と述べているが、それは本来あってはならない行動なのである。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という言葉がある。ある人を嫌いになると、その人に関連する他の物まで嫌いになってしまう、という人間の心理を表した言葉である。これは非常に愚かな行為であり心理的誤謬である。これをしてしまっている心当たりのある人は即刻やめるよう改めていただきたい。
また、紹介した一連のツイートへのリプライに「この人の場合は「賢い」ではなく「ずるがしこい」「こざかしい」ですよね」といった趣旨のものが見られた。これにも私は違和感を抱いている。
いい人がとった”賢い”行動は「賢い」、悪い人がとった”賢い”行動は「ずる賢い」なんて表現を分ける手法は日本語に限らず存在するだろうが、この表現は人間を「善」「悪」と完全二元論的にバッサリ分けて考えているようであまりいい気分がしない。
「この人のここの部分はあんまりよくないかもだけどここはいいところあるよね」のように個別の行動を素直に評価できる社会になるべきだ。そのためには「ずる賢い」という言葉は存在してはいけない。人間は「ずる賢い」という言葉によって表現の幅を広げた結果、逆に人間自体の幅を狭めてしまっているのだ。
この津田氏の過ちは、彼のジャーナリストとしての職業病なのかもしれない。大衆に事実をわかりやすく伝えるためにはラベル付けをするのがよい。大衆は頭が悪いため、「こういう話だな」と了解してから文章を読まないと自分でどういう話か判断することができないからだ。だから「この人はこうこうこうした悪い人なんだけどさ」とつけることから始めて「こういう話なんだよね」といってあげる必要がある。だから津田氏のフォロワーには「差別扇動をしたこんな悪い人に「賢い」なんて称賛する形容をするのはおかしい!!」と突撃をする人が現れるのだろう。まさか本人もそういう思想の持ち主だったとは思わなかったが。
どうしてこんなことになったのか。それはもちろん「ずる賢い」という言葉が存在するからである。本来言葉とは人間の表現を豊かにするためのものなのに、その言葉のせいで人間の幅が制限されてしまっている。こんなことはあってはならない。
では消そう。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』のNewspeak(新語法)だ。ニュースピークでは「悪い」という言葉は存在しない。「良い(good)」を否定すればいいからだ。『1984年』ではこのほか使用できる言葉を極端に制限することで国民の語彙や思考能力を制限し、独裁者「ビッグブラザー」への批判を行わせないようにしている。これしかない。
これを行うと副次的な効果も生まれる。そもそもの発端となっていたおねロリキメセク天皇の発言も発生しない。語彙が制限されることで論理的思考ができないからだ。そもそもIQの高さと幸福度の高さには逆相関がある。頭が悪い人の方が平均的な幸福度は高い。これは国民の幸福度の増加にも貢献できる。これしかない。
やはり最後にはプラトンに倣った哲人による独裁政治しかありえないのだ。